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サウンド オブ サイレンス

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 小学生の頃のこと。
 あの頃の年というのは、友達と違うことや「異質」な存在に対して、かなりナーバスになる頃だ。ランドセルの色が黒ではなくて紺色だから、革靴なんか履いているから、とか。

 転校生は特に大変だ。転向したては上履きが違う、リコーダーが違うメーカー、様々なものが違っていて、標的になりやすいもの。あの時期に受けたいじめや、したいじめなんて本当に些細なきっかけとしょうもない理由を振りかざして起きたものであって、今思い返すとばかばかしくて苦笑いするしかない。たとえそのことでどれだけ傷つき、傷つけてきたとしても。そうやって僕らは生きてきた。

 小学生時代、僕は父親の会社の社宅に住んでいた。社宅は公園やテニスコートなどがある、環境はいいところだった。その広い敷地のせいか意外と社宅の外で遊ぶということが少なく、日々社宅内の原っぱや公園で同じ社宅に住む子と遊んでいた。カラーボールでサッカーをしたり、みんなで発案したルールにのっとってゲームをしたり、秘密の基地を作ったり。
 そんなあの頃、夕方になり空がオレンジ色を帯びてくる頃、きまって母が部屋の窓から社宅のどこかにいる僕の名前を呼んだ。大きな声で。
「ああ、夕飯の時間なんだ。」
 母の声を聞くといつも楽しい遊びの時間の終わりが来てしまったことに気づき、落胆した。
 その母が自分の名前を呼ぶ声が聞こえてくる時、決まって一緒に遊んでいた友達はその母の声真似をした。僕の名前を呼ぶ時の母のイントネーションが少し変わっていたからだ。なぜか母親のイントネーションは他の誰もが使うことのないちょっと奇妙なもので、名前の持ち主である僕も違和感を覚えるものだった。そして普通このような違和感に対して嫌悪を抱き、母にイントネーションを普通のイントネーションに変えてくれるよう願う、もしくは変えられないのならば呼ばないよう懇願するものだろう。この「異質なもの」に対する冷やかしは、子供にとっては耐え難いものだから。例にもれず僕も何度かそのようなお願いを母にしたように思う。それで母の僕を呼ぶ声が変わることはついになかったけれども。
 でも今となってふと思いかえすと、実はいつだって心の中では「別にそのままでいいや。」と思っていたのではと思う。母のその独特のイントネーションは他の誰も使うことのないイントネーション。その僕を呼ぶ響きは唯一無二であり、心の奥底では夕闇がせまるころ、その声を待っていたように思う。毎日社宅の中の違った場所で遊んでいたので、毎日違った方向から夕刻の乾いた風に乗って、遊びの時間の終わりを知らせるために母の声は聞こえてきたが、母が夕飯の支度などで手間取って、僕を呼ぶのが遅くなりなかなか聞こえてこない時などひどく心細く思うことがあった。きっと母という存在を確認できるかどうか、子供の僕にとってそれは安心を得るか得られないかの大きな問題だったのだろう。だからこそ、どんなに周りからからかわれようともあの声を完全に否定することができなかったのだろう。

 大人になった今でも、ふと迫りくる夕闇をみるとき、あの母の声が聞こえてくる気がする時がある。その度、別々に暮らす母に久々に会いに行こうかと思い、結局忙しい日々の中に身をゆだねて行けずじまいになる自分がいる。

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